#18 母、骨折、手術、入院
こんにちは、ノリコです。
先日、母が買い物中に外で転び、大腿骨を骨折しました。
高齢女性あるある、の箇所らしく、手術は局所麻酔で無事終了。手術翌日からもうリハビリ開始というスパルタぶりです。
問題は、コロナのせいで家族がまったく病室に入れないこと。
見舞いも厳しく制限され、直接会うときには我々はその場で抗原検査を受けなければなりません。それでもデイルームでようやく15分ほど。
母は頑張ってリハビリ(歩行器を使ってくるくる歩き回る)しているそうですが、若干のせん妄が出てきていると言われました。
医者にしてみれば高齢なのでそれは仕方ない範囲であり、あくまで治療は順調、という程度の認識のようです。
早くも転院を催促されており、今空いている病院は評判がイマイチ、しかも高額の個室を打診されています。
ああ、転院の大変さは何となく聞いていましたが、こうやって足元を見られるのだな、ということがわかりました。
この先どうなるか考えて私もストレスが溜まっているのか、首に大きなおできができたり(昨日皮膚科で切開しました!)、頭痛がしたりして、なんだかもうすでにしんどい。
なるようにしかならないのは分かっているけれど、コロナさえなければ、とか考えちゃいますね。
ともかくおできは抗生物質で治るし、頭痛は瞑想でもして治すか~と考え、なるべく自分の心身の健康を維持すべくやって参ります!!
#16 差別や偏見を次世代に引き継がない
こんにちは、ノリコです。
2022年4月、牛丼の吉野家の取締役が大学での講義で地方・女性に対する差別発言をして炎上しましたね。個人的に女性蔑視発言は非常に不愉快に思いました。また、一社会人としてあり得ない発言だと思います。
さて、80代の両親と過ごす時間が長くなると、時たま、親たちから驚くべき差別的発言が飛び出すことがあります。太平洋戦争を幼少期に体験している世代です。
女性、障碍者、職業、民族、部落、国籍、人種、宗教を差別する用語や偏見は、今はだいぶ廃れてきたとはいえ、たくさんあります。用語があるということはそういう発言をみんなが普通にしていた時代が長くあったということです。
その時代に生きてきた人は、その価値観から強く長い影響を受けているので、ふとした機会にぽろっと出てしまいます。時代が変わって大っぴらに言わなくなってからも、それを見て聞いて育つ子供世代に少しずつ価値観は伝わります。
親が差別用語を言うとびっくりしてたしなめる50代の私でさえ、その用語を知っているし、そういう発言の背景を知っています。時々、頭の中で苦労して差別的思考を抑え込まないといけないことがあります。
この吉野家の取締役も、そうやって親世代から受け継いだ価値観を根底に持っているのでしょう。差別や偏見は誰でも持っていることを認めつつ、次の世代にこんなものを引き継がないよう、各人がよくよく注意していかないといけませんね。
大きな価値観の変化のことを「パラダイムシフト」と言います。
最近私が読んだ本によれば、
「社会を構成している基本的価値観」を「パラダイム」と呼び……そのパラダイムに変化があれば、当然、社会システムや政治、経済、家庭、生活様式といったあらゆる部分に大きな変化が起こります。そういう大きな、社会を変えるほどのパラダイムの変化のことを「パラダイムシフト」と呼びます。
ということだそうです。
岡田斗司夫氏がここで言うパラダイムシフトは、はるかに大きな流れのことなのですが、私は自分の「価値観の変化」についてもこの言葉を使いたいな、と思いました。かっこいいから。言わせて。
#15 古池や蛙飛び込む水の音
こんにちは、ノリコです。
突然ですが、松尾芭蕉の俳句です。
古池や蛙飛び込む水の音
多くの人が一度は聞いたことがあるだろう有名な俳句です。が、あまり深く考えることはないでしょう。カエルが池に飛び込んで音がした。ふーん・・・
ちなみにカエルは何匹でしょうか?古池はどこにあるのでしょうか?
1匹?
たくさん?
山の中?
町の中?
私は1匹だと思っていて、すごく静かな山の中の池を、なんとなく想像していました。
だって静かな環境じゃないとカエルが水に飛び込む小さな音が聞こえないと思ったから。
実際には、カエルは1匹だけれど、場所は町中、しかも池でもなかったようです。
この句の誕生のきっかけを、門弟の一人が書き残しています。
ある日、芭蕉は隅田川のほとりの芭蕉庵で何人かで俳句を詠んでいたら、庵の外から蛙が水に飛びこむ音が聞こえた。
そこでまず「蛙飛こむ水のおと」と下の七・五ができた。
その後で、「古池や」を組み合わせたというのです。
日本では田んぼから聞こえるカエルの合唱は昔から人々に親しまれてきました。
カエルが歌に詠まれることはあっても、それは鳴き声でした。
しかし、この句では鳴き声ではなく、水に飛び込む音が詠まれた、というのがすごく画期的なことだったんですって。新しい視点の発見だったんですね。だから有名なんです。
でもね、この説明だと、芭蕉はポチャンという音は聞いたけど、カエルの姿は見ていないんじゃないのかな。誰かが石を投げたのかもしれないし、小魚がジャンプしたのかもしれないし。
芭蕉が、あ、あの音は質量的にもカエルだな、と鋭く思ったのでしょうか。ゲコ、という声がしてからのポチャン、だったのでしょうか。
これは完全に私の憶測ですが・・・
句会で頭をひねっていた時に、そとでポチャンと水音がした。
芭蕉はこの音で一句作ろう、と思い、ふと、カエルだったら面白いな、と思ったのじゃないかしらん。つまり、現実に存在したのは水音だけ。
いやいや、その音さえも本当に芭蕉は聞いたのでしょうか?
水のことを考えていて、頭の中だけで鳴った音かもしれない。
つまりオール想像の産物??
ありえなくはないですよね。だって芭蕉だもん。(知らんけど)
なんだか、最初のイメージとだいぶ変わってきました。
山の中の静かな池でカエルが飛びこむのを見て作った句じゃないことだけはわかりました。
へええ。
#14 アーティストは心休まらない
こんにちは、ノリコです。
最近見たいくつかのテレビやYouTubeで、アーティストって因果な存在だなと思ったので、それについて考えたことを書きます。ここで言う「アーティスト」はメンタル的な意味でです。
1. ドラマ。登場人物は「詩人」。自分の人生を詩に書いて路上で細々と売っていました。つらい人生を歩んできた女性は、詩を書くのは苦しいし、作った詩集は売れないし、でも書かずにはいられないのです。それが自分が生きているあかしだから。
2. ドキュメンタリー。ボクシングの村田諒太さんの密着でした。世界レベルで何かを極めた方の思考は一般人と違うというか、ストイックに自分の弱さと向き合い続けていらっしゃった。試合の前に気持ちで逃げてしまった自分を克服しようとしているのです。
3. YouTubeで見た江頭2:50さんのスピーチ。夢を追いかけるならあきらめるな、と学生にげきを飛ばしています。うまくいかなくて当たり前、だってお前らが追いかけているのは夢なんだから。うわ、胸アツ。エガちゃんも私の中ではアーティスト認定ですね。下にリンクを貼っておきます。
私が思う生来のアーティストとは、「やらずにはいられない」「突き詰めずにはいられない」っていう因果さが特徴です。これは後付けでやろうと思ってできるものではないでしょう。
アートにゴールはなく、どんなにあがいても達成感はなく、まるでシーシュポスの神話のように苦行が続く人生を運命づけられているなんて。
私自身はアーティストの対極におり、
・ダメそうならあきらめて他の道を探したらいいんじゃなーい?
って合理的に考えるタイプ。本当に自分がアーティストじゃなくてよかった。人生つらすぎるもの!!!
アーティストは苦しむことを運命づけられて生まれてきた存在で、よって職業ではありません。学生でもサラリーマンでも漁師さんでも、その思考が何かを追求して苦しむタイプならアーティストと私は定義します。
逆に、画家や演奏家のような芸術家でも、締め切り内にある程度のクオリティのある作品を提供することが大事な場合であれば、職業芸術家、と区別できるかもしれません。
アーティストは心休まらない。
尊敬しつつも、身近にいられるとちょっとつらいかも~。
#13 タケノコご飯-母のレシピを受け継ぐ
こんにちは、ノリコです。
母からタケノコの煮物の作り方を教わりましたので、記録として残しておきます。
下茹でしたタケノコを切って湯がく(10分くらい)。右は煮物用(中)、左はタケノコご飯用(細かく)。後からお揚げも足して油抜き。水を切る。
水適当としょうゆ・酒・みりん、出汁昆布を沸騰させ、
タケノコを入れる。鰹節を投入。20分くらい煮る。
鶏肉投入。
もうちょっと味を濃くした方がよかった。タケノコご飯用はさらに濃いめに。
タケノコご飯🍚は、醤油と酒を少し入れて茶色っぽいご飯に炊き、後から具を混ぜる。
母は料理上手で、足腰がだいぶ弱ってきた今も、父に手伝わせながら何とか自立して食事の支度をしています。
こういうレシピを今更ながらちゃんと教わっておこうと思いました。
#12 インターネット断捨離、する?
こんにちは、ノリコです。
自宅でネットを使わないのってどう思います?
イマドキあり得ない?😄
でも私は、案外アリかも!と思いましたね。その理由は…
先日、海外のミニマリストさんのブログを読んでいたら、家でのインターネットを断捨離しちゃってるとのことで驚きました。だってその人、ブロガーでYouTuberなんですよ!
どうやっているかといえば…
ネットが必要な作業と時間をあらかじめ決め、その時間だけ、カフェや図書館や貸しオフィスなどのネット環境に行くんだそうです。メールやメッセージの送受信も、そこでだけ行う。
そうすると、
📍一日を計画的に過ごせる
📍ダラダラ際限なくネットサーフィンしなくなる(余計な買い物もしなくなる)
📍家では読書や勉強の時間が取れる
📍集中力が増す
つまり。
自分の時間を取り戻す。
その話を読んで以来、自分の今の気分的な忙しさの7割くらいは、インターネットのせいなんじゃないかと思い当たりました。せっせと取り入れている新情報、それ、本当にわたしに必要?
とりあえずは、朝、一日のうちの何時から何時までネットにつながる、と決めることにしました。
又は、何時から何時までネットにつながらない、と決める。こっちの方が簡単かな?
少し前、家のWi-Fiが遅くて、どうやったら速くサクサクネットに繋がれるかを一所懸命考えていましたが、なーんだ、それほど必要ないや、ってこと。結局、CMにこう思わされてただけ。
「高速ネットに繋がらずんば人にあらず」
よくよく、よーくよく考えれば、つながっていない時間が一番クリエイティブなんだなー。